児童らがアカトンボの生態を調査する「アカトンボ見っけ隊」が9日、大崎市鳴子温泉鬼首の鍋倉山(標高1100㍍)山頂で行われた。子どもたちはトンボの種類や雌雄などを記録した後、羽にマーキングして山へ放した。平野部の田んぼで羽化したアカトンボは、夏に高山で暑さをしのぎ、秋に田んぼへ戻って産卵する。場所によっては100㌔以上も移動することがあるとされる。調査は、みやぎ北ユネスコ協会が2021年から実施。山頂は例年多くのアカトンボが飛び交うが、この日はほとんど見られない状態。子どもたちは若見朝子会長からトンボがいそうな場所の助言を受け、刈られていない草の近くなどでアカトンボやオオルリボシヤンマなどを発見し、網で捕獲。調査票に種類や雌雄を書き入れ、アカトンボの羽に印を付けて放した。秋に田んぼで追跡調査する。
 荒雄地区戦没者慰霊祭が11日、江合八幡神社(大崎市古川)で営まれた。遺族と地元関係者らが忠魂碑前で亡き人をしのび、戦後80年の節目に恒久平和への誓いを新たにした。境内の忠魂碑は1982年建立。同地区(江合、福浦、福沼、李埣西部、李埣東部、蓑口、馬寄、小泉、宮袋)から日中戦争と太平洋戦争に出征し、無念の死を遂げた94人の氏名が刻まれている。中国大陸のほかガダルカナル島や硫黄島など〝玉砕戦〟での戦没者、捕虜としてシベリア抑留で命を失った人の名も。慰霊祭には約50人が参列。君が代斉唱と黙とうの後、神職による神事があり、戦没者たちの冥福を祈った。

 第2次世界大戦末期に美里町を襲った「小牛田空襲」の伝承に取り組んでいる沖田捷夫さん(80)=同町駅東=が7日、紙芝居を使って当時起きたことを町内の小中学生23人を含む約50人に語り聞かせ、平和への願いを託した。小牛田空襲は1945(昭和20)年8月9、10の両日、米英軍艦載機が交通の要衝の小牛田駅を中心に爆撃、機銃掃射し、20人以上が犠牲となった。沖田さんが理事長を務める遠田地区護憲平和センターは1月、空襲体験者の証言をもとに紙芝居を制作。それを基にこの日、町駅東地域交流センター主催の講話で講話した。沖田さんは「列車が爆撃されたとき、近くの田んぼで仕事をしていた女の人2人も即死しました」「このように目標への爆撃は周りの人も家も巻き込んだのです」「先の戦争で、旧小牛田町内の軍人の死者は618人、戦争関連死も含めたら相当の人が犠牲になったと思います」と読み聞かせた。
 加美町中新田図書館展示ホールで、企画展「台湾Week」が開かれている。台湾の地理や文化などを紹介したパネルや関連図書が並び、訪れた人たちが関心を深めている。20日まで。町国際交流協会と同館が、昨年のフランス・パリ五輪に続いて共催で実施。同町は現在、台湾・嘉義市と交流を進めていて、先月は嘉義市の黄敏恵市長が初めて来町した。会場は、鳴瀬と広原児童館の子どもたちが制作したちょうちんや色鮮やかなランタン合わせて130個が天井を彩り、台湾の街並みや文化、野球チームなどを紹介したパネルが並ぶ。また、嘉義市から寄贈された、日本統治時代に台湾で流行したマジョリカタイル、宝箱をモチーフにした紙製の「紅包」などもある。

 太平洋戦争のさなか、旧鳴子町(現大崎市鳴子温泉)などであった集団学童疎開を振り返るパネル展が、JR鳴子温泉駅待合室2階で開かれている。疎開児童や町民が語る当時の記憶を写真とともに伝えており、訪れた観光客らが関心を寄せている。17日まで。戦争末期の1944~45年、東京や横浜など大都市の国民学校1~6年生約45万人が戦禍を避け、農村部へ疎開した。旧鳴子町や隣接する旧川渡村のホテル、旅館にも東京都小石川区(現文京区西部)、浅草区(現台東区東部)などから延べ約6500人、鳴子、川渡両町村人口の3分の2に上る学童が身を寄せた。最初のパネル展は終戦から50年後の1995年、鳴子町観光協会が企画。鳴子町の人たちと50~60代を迎えた疎開児童に取材し、パネル7枚にまとめた。それ以来の開催となる今回は、戦後80年の節目に当たり、当時の出来事に関心を持ってもらおうと、鳴子温泉観光協会が実施した。
 記録的な高温少雨に伴い稲作への影響が懸念されるとして、大崎市は6日、関係機関ぐるみの「農作物異常気象対策連絡会議」を開いた。安部祐輝市世界農業遺産推進監は「まさに(水が必要な)出穂期で今後1~2週間が重要」と強調した。市と県、農業団体から約20人が出席。「生育はおおむね順調」だが「番水制も『水が末端まで届かない』との話を聞く」「早生品種のほ場でひび割れや枯れが見られる」との報告も。また農業用水供給について市の担当者は江合川、鳴瀬川両水系とも今月中旬まで「維持可能」との見通しを示した上で「雨なしでは厳しい」と訴えた。県大崎農業改良普及センターの小池修総括技術次長は「土壌が湿った状態を保つ『飽水管理』は限られた水で実施可能で、従来の『湛水管理』よりも白未熟粒の発生抑止が見込める」と紹介し「出穂以降30日程度」の効果的な実施期間も説いた。

 「こども夏まつり」が2日、大崎市古川高倉地区公民館で開かれ、児童たちが工作と縁日コーナーを楽しんだ。同館が古川志田地区公民館と共催し、古川西小中、古川第一小、古川第五小の子どもたちを対象に行っている交流事業の一環。内容を変えながら、長く続けている。この日は20人が来場。綿あめとかき氷を自分で作って食べる体験型アトラクションでは、絹糸のように細い砂糖菓子を割り箸に絡ませたり、好きなだけ削った氷の山にシロップや練乳をかけたりする作業に歓声を上げていた。
 世界初の原子爆弾が広島市に落とされてから丸80年を迎えた6日、涌谷、美里両町の4寺院で「平和の鐘」を鳴らす取り組みが行われた。投下時刻に合わせて参列者たちが平和への祈りをささげた。9日には、長崎市への原爆投下に合わせて鐘を鳴らす。3年目の取り組みで、新日本婦人の会古川支部かたくり班と遠田母親連絡会が各寺院で一斉に実施。このうち箟峯寺(涌谷町箟岳)では投下時刻の午前8時15分、会員ら7人が順に鐘をつき、手を合わせて核兵器のない世界を願った。遠田母親連絡会の鈴木由美会長(74)=涌谷町田町裏=は「原爆で亡くなった人や生き残っても大変な思いをした人たちの苦しみを後世に伝えていきたい」と話していた。9日は長崎市に投下された午前11時2分に行う。参加希望者は15分前までに集合する。会場は同寺のほか、玄松院(美里町中埣)、興安寺(同町北浦)、見龍寺(涌谷町龍渕寺)。

 中新田高で1日、就職を希望する3年生の模擬面接が行われた。生徒の就職活動を支援しようと、地元経営者らが面接官役を務めたもので、生徒たちは本番さながらの面接に臨んだ。2008年に発生した世界的な金融、経済危機「リーマン・ショック」の影響で就職難となった時期に、生徒の進路をサポートしようと、PTAや同窓生が企画したのが始まり。当初はマナー講師の講演会や地域外の経営者を招いた面接を行っていたが、近年は地元の経営者や官公庁職員が面接官役を担っている。本年度は3年生66人のうち33人が就職を希望。その多くは県内や地元企業への就職を志望していて、この日は18の企業や官公庁が協力した。面接官役は2人ずつ9会場に分かれて実施。面接時間は1人25分間で、生徒は身だしなみを整え、姿勢良く入室すると、緊張した表情ながらも面接官役の質問一つ一つに丁寧に答えていた。
 「荒川堰絵図及び絵図箱」=市指定有形文化財=が7月30日、大崎市へ寄贈された。これまで所有してきた荒川堰土地改良区(同市三本木)の意向を踏まえ、世界農業遺産「大崎耕土」の歴史伝承に役立てる。絵図は現在の色麻町から大衡村経由で大崎市松山まで33・8㌔にも及ぶ農業用水路「荒川堰」の全容を幅50㌢、長さ18㍍に収めたもの。1858年作。仙台藩が鳴瀬川右岸にある志田、黒川、加美3郡12村の新田開発のため開削(1655年)した用水路で、その約200年後に描かれた絵図には流域12カ所の潜穴と隧道、田畑への配水口、寺社と集落も記載。家々には伝統的屋敷林「居久根」も。

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