わが子を案じたまま亡くなった
早坂さんの両親

口つぐんだまま両親死去
家族ら「今、立たねば一生後悔」

失われた39年間・早坂勝男さん拉致疑惑 第4回

2007年2月23日付

「何年後かに子どもを連れて現れますよ」

 警察官の言葉を頭の中で何度も繰り返し、家族らはじっと早坂勝男さんの帰宅を待った。

 勝男さんの父、勉さん=1981(昭和56)年6月に死去=は行方不明になった息子について、家族や知人らに語ることはほとんどなかったという。母、としのさんも口をつぐんだまま94(平成6)年11月に亡くなった。死後、子どもたちが父母の遺品を整理すると、たんすの一番下の引き出しの奥から見慣れないお守りが出てきたという。

 中には「勝男」と母の直筆で書かれた紙が折り畳まれて入っていたという。勝男さんの姉、小山よし子さん(64)=宮城県加美町字原=は「周囲に心配かけないように、ずっとだまっていたんでしょうね」と語る。

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 2002(平成14)年9月、小泉純一郎首相(当時)の訪朝で13人の「拉致(らち)」が明るみに出た。「神隠し」「蒸発」などと周囲から冷たい言葉を投げかけられながらも孤独な戦いを続けていた全国の家族らが次々と名乗り出る。勝男さんは59歳になった03(平成15)年、「特定失踪(しっそう)者問題調査会」のリストに公開された。

 奇妙な共通点も見つかっている。調査会は06(平成18)年10月、東京や千葉の印刷関係者が63(昭和38)年から73(昭和48)年にかけて分かっているだけで8人失踪していると発表。その後に北朝鮮製のにせドル札が日本などで流通し始めていることなどから、調査会の荒木和博代表は「早坂さんら印刷工はにせ札作りのために拉致された可能性が高い」とみている。家族らの疑念は次第に確信めいたものに変わっていった。

 しかし、表立って署名活動に取り組むには勇気がいった。ほかの特定失踪者と比べても、「拉致」と断定するにはあまりにも証拠がないためだ。

 早坂さんが当時暮らしていたアパートの住所も分からない。同居していたルームメートの名前も不明。印刷会社も1991(平成3)年までに倒産し、いつまで勤務していたのかさえ“闇(やみ)の中”。北朝鮮での目撃情報も、拉致された現場での遺留品もない。

 そんな中、立ち上がったのが義兄、小山巌さん(67)=加美町字原=。以前から「拉致ではないか」という考えを持っていたが、義理の兄弟ということで「表立って動くことは慎んでいた」。しかし、年月が経過して兄妹はいつの間にか「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれる存在に。拉致問題に関する報道も数年前と比べてめっきり少なくなっていた。「今、立ち上がらなかったら一生後悔する」。

 家族らの本当の戦いはここから始まった。(第一報道部 板垣 英人)